未来のことには興味がない。
仕事も研究も、一応は未来に向けて社会的に意義のあること(これは思い込みの可能性もあるけど)をやらされている、いや、やっているわけです。
そこでは例えこじつけであろうとも、手掛けているものが未来につながるかどうかが、存在意義そのものになってくるのです。
もう十分なんですよ。
私の毎日は未来で満たされているのです。
だからこそ俺は疲れているし、ずっと背中の痛みが続くだけの死ぬまでを生きている。
そもそも考え過ぎることで未来への興味を失ったのか、もともと未来に興味がなかったのか。
ようやく手に入れた自分の時間においては、もう未来のことなんぞ考えたくもない。
思い出のある場所に行って、ただ刺激のなさと居心地のよさに身を委ねたい。
面倒くさいことが何もない場所に行きたい。
それが一昨日の泰安温泉だった。
やれポジティブだ、未来志向だ、過去ばかり語りたがるヤツはおっさんだ。
そんな言説をよく見るし、3番目のやつは確かにそれっぽいけれど、いちいち攻撃的な文脈で語ることでもないでしょ。
精神のバランスとは無縁の人、とっくに心を捨てていて有料noteさえ売れればいい人、昼間はひたすら心を殺して文化財を発掘するバイトをしている人。
まあ3番目は例外にしてあげたいけど、とにかくそんな人の形をした生きものが撒き散らす、バーベキューの後片付けを放り出してさっさと二次会に向かうための言説としての未来。
馬鹿じゃねえか、そんなもんに価値なんかあるわけねえだろ。
死んじゃったものは、しかたないわ。このリスは、そのうち土になるでしょ。やがて、そこから木が生えて、あらたなリスたちがはねまわるのよ。それでもあんたは、かなしいことだと思う?
ぜったいにたしかなもの―そういうものがあるんだよ。たとえば、海の潮流とか、季節のうつり変わりとか、朝になったら日がのぼるとかさ。そして灯台には、かならずあかりがついているものなんだ。
目いっぱい入って3人のサウナと、1人用の水風呂。
22歳のころから22年が経って、あの頃通っていた銭湯が今でも頑張ってくれているのはつくづく幸せなことなんだと思った。
以上