『月刊サウナ』の連載第7回

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朝6時15分に起きて、6時30分から働いていた時代があった。毎日5時間半働いても、日給は5000円に届かなかったと思う。それでも働き続けていたのは、欲しい金額とのギャップを埋めてくれるものがそこにあったからだ。口調の強い甲州弁で、仕草がいちいち荒っぽくて、しかし腕は確かで、話せば「ちゃんとメシは食ってるか?刺身でも焼き物でも好きなの持って帰れ」と気持ちはやさしい魚屋のおじさんたち。働き盛りだったおじさんたちは、今はもうおじいさんになってしまって、代わりに俺がおじさんになった。それだけの月日が流れてしまった。当時の俺はいつも昼まで働いて、いつも同じ店で吉田のうどんを食べて、いつも泰安温泉のサウナに入ってから帰っていた。サウナに入るのは、毛穴から汗で匂いを押し出すための知恵だった。ビニールのエプロンを着て、長靴を履いて働いても、特に魚の血の匂いはなかなか取れた気がするものではなかったのだ。家でシャワーを浴びただけでは物足りなかった。体よりも鼻の奥に付いた匂いが取れなかったのかもしれない。これから昼寝をして、夜は遊びに繰り出すのに、臭いかもしれない自分では許せなかったのだ。ここが自分のサウナ時代のスタートであって、それはまったくの実用だった。目いっぱいに泡を立ててガシガシと体を洗って、サウナで出るだけの汗を出して、富士山の雪解け水の水風呂で肌を締める。思えばなんと若者らしいパワーのあるサウナの入り方をしていたのだろう。その頃は誰もサウナの入り方なんて講釈してくれなかったし、講釈したがる人間もいなかった。もっともサウナというのはずっとそんなもので、やたらと皆が講釈したがるようになったのはこの5年くらいのことであるように思うけれど。他人事のように書いたが、俺だって講釈したがるほうの人間なのである。だって5年前にこんな文章を書いているのだから。

あらためて読むと「ヘタクソだな」の一語だが、これはこれで思いのこもった文章にできた自負もある。この記事の中でも泰安温泉をとりあげていて、看板の写真を使わせてもらうために泰安温泉へ確認の電話を入れた。最初は要領を得ない様子だったが(まあそりゃそうだ)、なんとか説明して状況をわかってもらうと、「先代の時に通っていただいたんですね」「どんなふうに書いていただいてもいいですよ」と笑ってくれた。泰安温泉は細かく手を入れたところはあるけれど、浴室のレイアウトは魚屋の帰りに通っていた頃と変わらない。「おめえ、どうせ就職なんて決まらんから、ずっとここで働いてけ」と言ってくれたのは、本当におじさんたちのやさしさだった。あのやさしさに甘えていれば、今の俺は「ホームサウナは泰安温泉です」なんてツイートをしていたかもしれない。冴えない人生の中でも、山梨にはいい思い出がある。いつかまたあんな毎日を過ごしたいと思うからこそ、今もまだ生きている。俺はいつか山梨に還る。泰安温泉に通う毎日に戻る。しかし、魚屋で働くのはもういいやと思っている。

 

今年の1月から始めた『月刊サウナ』「サウナ室で逢おう」の連載は7月26日発行号で7回目に。夏を迎えられて本当によかった。せっかくの続き物なんだから、一度は四季を通さないとね。

以上