自分が死んでしまう前に猫を飼いたい

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うちのマンションでも猫は飼える。そういう決まりになっている。だんだんと「小さな子どもがいる家」の雰囲気を失い始めた今になると、狭い我が家でも猫が運動不足にならない程度のスペースはなんとか確保できそうだ。しかし猫を飼いたがっていた上の子は、習い事で外に出る時間が長くなり、猫よりも友だちと関わりたい年頃になったように見える。そもそもうちは共働きで、家に誰もいない時間が長く、電気代が高騰する中で猫に快適な環境を用意して留守番をお願いするのも難しそうだ。よっぽど下の子に「猫を飼いたい!猫を飼いたい!飼ってくれたら両親の老後の面倒は全部みる!」と宣言される事態にでもならなければ、我が家は猫とは無縁のままで終わっていくのだろう。俺は飼い猫とは縁がない。しかし飼い犬とはもしかして縁があったかもしれなかった。今の下の子と同じくらいの年恰好だった頃、父親が会社の人から犬をもらってきた。子犬とはいえないサイズだったが、成犬というほどには完成されていなかった。俺は小さな頃から愛着が湧いてしまうタイプだった。かわいかった。俺ではなく犬が。しかしそれでも近づき方が難しいというか、すぐにはうまく距離を縮められなかった。だんだんと慣れていけばいいだけだったのだが、両親は俺の様子を見て早々に「この子は犬が苦手」と判断してしまい、かわいい犬は返却されてしまった。その後、少しだけ時が流れた後に母親が鬱になった。正直、苦労した。父親も苦労した(妹は案外しれっとしていた。女同士だとそんなものなのかもしれない)。「辛いのは本人なんだから」の意識でなんとか乗り切った。たまに思うのは、もうひとり家族がいれば、すなわちあの犬と一緒に暮らす家族になっていれば、精神の持ち方が変わり、生活が変わり、未来が変わっていたのではないかということだ。そりゃなにも変わらなかったかもしれない。実際にはそうならなかった過去の話なのだから、なんの証明もできないのだから。しかし俺も父親も、もちろん母親も、言葉の通じない家族がいれば違う在り方があったかもしれないとの思いがある。どうにもならなかったように思える出来事であればあるほど、実は分岐点があったことに後になって気づくことがある。うちはやっぱり猫を飼ったほうがいいのかな。子どもの情操教育のために、なんて大層なことは言わない。それでも家族の情緒の拠りどころとしても(だいぶ大きな使命を背負わせてしまうけれど)、猫と一緒に暮らしたい希望はある。動物を飼う時にしんどいのは自分よりも先に死なれてしまうことだ。自分が死ぬよりも、家族や友だちやペットに死なれてしまうほうがしんどい。想像するだけでもうしんどい。しかし最近は俺もぐったりとしていることが多くて、疲れた状態がデフォルトになってしまって、もとより社会の消耗品に過ぎない氷河期世代なので、どうせ平均寿命なんて指標が意味を成すほどの長生きはしないだろう。昨日は神戸でオリックスの紅林弘太郎がホームランを打って勝った。高卒4年目の21歳。彼がショートを守る選手である点にオリックスの未来の明るさがあるのだが、30歳を過ぎてサードにまわり、40歳に近づいて代打の切り札になり、そんな紅林弘太郎を最後まで見て通す自信はないもん。自分が猫より先に死ぬのなら、しんどさはひとつ減る。あとは残った家族と暮らしてくれればいい。ああ、自分でも飼いたいと言ったくせに無責任にもほどがあるな。しかし俺は、自分が死んでしまう前に猫を飼いたい。今はそう思っている。

 

以上