安いはずの酒を中くらいの金で飲んだ、そんな夜だった。
俺は新宿で飲むと、甲州街道を歩いて笹塚まで歩く。
なんとなく、罪滅ぼし。
雷の雨まで降ってきたらそれは罰なのだが、結局カミナリ雲は埼玉までで、東京には入ってこなかったらしい。
笹塚のマルシンスパを過ぎたあたりで、どうしてか左手にあったマンションに引っ張られた。
誰に腕を掴まれたわけでもないのに、引っ張られた。
そしてオートロックの番号に「1137」を入力した。
いいサウナ、これはまるっきり酔っ払いの行動だ。
しかしインターホンの向こうから「はーい」と明るい女性の声が聞こえてきて、扉が開いた。
俺は酔っ払ってはいるが、それにしても酷すぎるのではないかと思った。
視覚が狂っていて、俺はマンションの一室に向かっているつもりだが、実際にはガールズバーに引きずり込まれるところなのではないか。
しかしもう幡ヶ谷は過ぎているのであった。
(『府中白糸台日記』コロナウイルスが滅ぼした文明社会より)
今回は引っ張られたというとずるい。
酔っ払っているなりに、自分の意思でやってきた。
本当にあの世界があったのか確認するために。
果たして、オートロックの番号は1137番のままで、1137号室にはこちらの世界の妻がいた。
懐かしいけれど、妻は懐かしくはなさそうだった。
おそらく俺には、毎日この笹塚のマンションに帰ってきて、この妻と子どもたちと暮らしているパラレルワールドがあるのだろう。
「おかえりなさい」の声も3年前と同じだった。
以前訪れた時、この家には「子どもたち」がいて、さらに妻のお腹の中にはもう一人がいた。
今日は玄関に赤と青のランドセルが置かれ、リビングには今月の「保育園の給食表」が貼られている。
人は自分が見てきた風景の夢しか見られない。
俺はつくづく所帯じみた男なんだなと、小さく苦笑いした。
まだ目の前の妻のことをあまり知らないので、会話をすれば質問攻めになってしまう。
質問攻めは攻撃的な人間が、脱法的に相手を追い込む時に使うテクニックだ。
幻の存在とはいえ、妻を追い込みたくはない。
しかし会話が途切れて、お互いにテレビを眺めているだけの瞬間があっても、この空間は穏やかだ。
会話がなくても居心地がいいのだから、この奥さんはいい奥さんなんだろう。
寝ている子どもたちの顔を見にいこうとしたが、やめた。
なんだかそこに世界を分かつ一線が引かれている気がしたからだ。
「明日仕事しんどいなあ」と言えば「無理はしないで。辞めてもいいのよ」と言ってくれる。
そうなのだ、生活感がないから穏やかなのだ。
人生の苦しみとは、生活の苦しみのはずなのに。
やっぱり幻なのか、こちらの世界は。
気づいてしまうと、急に寂しくなって突き放された気がした。
窓の外のキャロットタワーを眺めながら、これはカミナリ雲が来る前に、府中に帰らないといけないと思っていた。
(以上、もちろん酔っ払いのフィクションです)