ただ俺と一緒に降りた客は他におらず、それに駅員もいなかった。
駅からの景色は荒涼としていた。
空き地ばかりで、所有権を主張する不動産屋の立て札が何本も刺さっていた。
外壁のブロック塀は残っていても、建物はきれいさっぱり消えているのがよくあるパターン。
これは解体を希望すると国費が出る制度があったことに由来する。
タダならば、と誰しもが喜んで解体を希望したなんて話は、どこにもない。
思い出の詰まった我が家が、放射性廃棄物として処理される現実。
2011年の東日本大震災があってから、何年か経った頃。
職場から浪江町に1人か、もしかして2人か、派遣されて仕事をする話があった。
俺は選ばれなかった。
結婚していてまだ子どものいない身は、除外される属性だった。
選別自体が酷いというのはまずあるとして、この地で長い時を過ごすことで人体に影響があるのではないか、それによって生殖機能を失うのではないか、放射能とはそのように作用するのではないか。
そう思われていた時代だった。
結局、本当のところはどうだったの?
なんの作用もないのなら、故郷を離れた人たちが救われない。
珍しく新しい建物があるかと思えば売り物件。
浪江町にはかつて2万人の生活があった。
全域に避難指示が出され、年月を経て徐々に解除され、今この地に戻ってきているのは1千人ほどだという。
店は更地になっても、商工案内図だけは残り続ける。
これ、おそらく意志を持って残しているのだと思う。
バスが来なくなったバス停。
地面に張り付いた乗用車。
浪江駅近くのホテルには「公衆浴場」の文字があった。
しかしこのホテルは復興に関する工事を行うJVの寮になっているらしい。
とてもとても、サウナに入ってみたいなんて言う気にならん。
雨の中を歩くと「いこいの村なみえ」の看板がある。
ここはかつての浪江町民が戻ってくるために用意された施設。
しかし宿泊と入浴は、万人に開放されている。
入浴料500円、対流式ストーブのサウナはカラカラの体感90℃弱で……などとここで品評するのは野暮だろう。
ただ水風呂は足先から痺れるくらいにキンキンだった。
これは季節によるものと思われる。
俺は天才ではないし、博愛の気質でもないので、他人の思いを想像する能力は弱いかもしれない。
それでもある日突然バラバラになって、故郷を失ってしまった子どもたちに思いを馳せるとしんどくなる。