多磨霊園で待ってろ

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年が明けてもう10日も経った。けれどもなんにも変わらない。実質的には2022年13月を生きながら、つくづく俺は他人にとっての感情の掃きだめ、痰壺なんだと思った。ある程度は年末年始に休んで、俺の頭も若干はクリアになって、周りの人たちも原点に戻って自分らしくあろうとする。そうなると、もともとあった雰囲気、風潮が強くなり、俺は自分が掃きだめで痰壺であるのを再認識させられる。こうなってしまったことに理由をつけることもできるけれど、この状況は別にこの場所がはじめてではないので、俺自身の人間性に由来して起こっている現象なんだろう。そう、俺が悪い。俺がここにいるのが悪い。俺が生きているのが悪い。プーチンが戦争をやめないのも、物価の上昇がとまらないのも、NPOがまともな会計をできないのも、東海道線鶴見駅にとまらないのも、全部俺が悪い。考えてみれば親もそうだったもんな。俺が自分の意思でああしたい、こうしたいと言うと、中身以前に俺がものを言ったことに驚いていた。自分の子どもが自らの意思を持つ人間であることを、今を持って理解できていない感がある。俺は冷たい子どもだったので、特にひどい鬱を抱えている母親のことを「参考記録」だと思っていた。もちろん追い風ではなく向かい風、うちの親は一般的な親とは違う振る舞いで生きているのだから、決してスタンダードだと思ってはいけないと。しかし最近ツイッターでしょうもないリプが来て、それでもこちらから答えてみると「テレビがしゃべった!」のようなリアクションをされてしまって、世の中の人々なんて大して変わらないものだとも思った。あるいはひどい鬱を抱えながらツイッターをしている人がそんなにいるのだろうか。自分の視界に入らない空間においては、他人は東京タワーに飾られていた蝋人形のように(今はもうないんだっけ?)固まって動かない、もちろん意思なんぞ持っていない、そう思い込んでいる人はたくさんいる。職場も研究室もどっちもしんどい状況だけれど、「思考なき人間は無価値」の概念がある分、研究室は居心地がいい。そうなのだ、俺は研究が好きで、研究に適性があって、だからこそ研究室の居心地がいいのだ。なんにも持っていない人の形をした生き物は、その程度には思い込んでおかないと、たった24時間刻みの一日一日ですら乗り越えていけないのだ。今日はもう面倒くさくて、多磨霊園の脇ではなくて、真っ暗な多磨霊園のど真ん中を突っ切って帰ることにした。そんじゃ、また明日。

 

以上