タイトルは『木内幸男監督の話』でも、俺は常総学院で野球をしていたわけではない。
一度だけ、木内監督率いる常総学院と練習試合をして、大敗して、野球なんぞ辞めちまえと怒鳴られたことがあるだけだ。
高校3年生、一番昼間が長い季節のそれでもまだ暗闇が残るような早朝、集合した学校で貸し切りバスに乗って群馬から茨城に向かった。
そんな時間なのに滅多に姿を見ない校長が見送りに来ていた。
こちらの監督は常総学院と練習試合を組んでもらえただけで満足そうだった。
そして俺たちは眠かった。
起きたら茨城に着いていた。
場所は常総学院のグラウンドだったか近くの球場だったか、覚えていない。
なにせ22年も前のことなのだ。
肝心の試合はダブルヘッダーで合わせて30点か40点、いや人間の記憶は時間が経つのとともに美しく取り繕うようになっていくものらしいから、本当のところは50点取られたかもしれない。
まともな試合になっていなかったこと、ランナーとして一塁に出たら常総学院の一塁手が「お前、彼女いるのか?」てなことを関西弁のイントネーションで訊いてきたことを覚えている。
常総学院は大掛かりなスカウトをしておらず、近隣の選手でメンバーを組んでいると聞いていたから、関西弁が意外だった。
それに俺はどうやって塁に出たのだろうか。
常総学院を相手にヒットを打ったら一生の自慢にしそうなのに(例え練習試合でも)俺はそうしていないから、何かゴチャゴチャとやって自慢できない形で出塁したのだろう。
ユニフォームにかすった死球とか、ゲッツー崩れとか、打撃妨害とか。
2試合ともボロ負けした後、我がチームは常総学院側へ挨拶にいった。
すると木内監督は一喝し、直立不動の我々を茨城弁で怒鳴りつけた。
お前らと試合を組んだのは無駄だった、まともに練習していたらこんな結果になるわけがない、もう野球辞めろ、今すぐ勉強始めろ、とそんな内容の茨城弁だった。
言葉はキツいにも程があったが、全てが正しかった。
疲れ果て一刻も早く茨城を去ろうと片付けをする我々の横で、常総学院は練習を始めていて、木内監督はマイクを持ってまた怒鳴っていた。
これだけ大勝しても怒鳴られるのだから、常総学院の選手もしんどいよなと思った。
その後、夏の甲子園で常総学院との再戦が叶えば大した物語だったが、俺たちの学校は初戦で敗退し、夏休みが来る前に高校野球を終えてしまった。
この年の茨城代表は常総学院ではなく、茨城東だった。
「いま野球ができなくても、命があればこの先また野球ができる機会はあります。高体連の大会も中止になっており、判断は難しいでしょう。それでも地方大会は開催するところは多いと思います。3年生にとっては最後の夏。自分の将来につながる道は、甲子園への道でなくてもいい。今はそう思います」
(スポニチアネックス)
これをにわかのコメンテーターがさらっと口にしたら腹が立つが、戦争を知る世代の言葉となると重い。
俺たちは木内監督に怒鳴られて、へこんだままで夏を終えてしまった。
結局のところ、弱かったのだ。
しかし高校野球は勝っても負けても思い出にはなる。
少なくともこうしてブログのひとネタくらいにはなる。
先にインターハイが中止を決めているという事情もあるらしいが、なんでもイージーに平等で正当化するのは痛い目に遭いすぎた大人の論理だ。
やれるものなら、やれるものだけでも、やってほしい。
難しいことは承知の上で、俺はどうしても夏の甲子園が観たい。
どうしても彼らに野球をやらせてあげたい。