杉並の「ゆ家 和ごころ 吉の湯」へ。
何年ぶりだろう、この小さくてその割に露天が広くて気の利いた銭湯に来たのは。
この前の世田谷の、錆びた水風呂の月見湯も久しぶりだった。
メンタルが思い出の場所を巡るモードに入っているらしい。
どうしてそうなっているかを知りたければ自分に訊くしかないけれど、別にいいや、知らないままでいいや。
自分とのコミュニケーションすら面倒になってきた。
コンフォートサウナで見上げたテレビ、外気浴の椅子から見上げた高い青空。
週末の吉の湯は朝8時から11時まで朝風呂の営業をしている。
そして月曜日は祝日だろうと何だろうと休む、その頑なさがいい。
こういう風景の詰まった街で暮らしてみたかった。
府中の暮らしでは、詰まっているのは狭い部屋の中だけだから。
不動産価格で結びつけられたマンションと、街そのものの親密さは別物だ。
「子どもたちは広いところでのびのびと」は正論かもしれないが、親密な造りの中で友人知人に恵まれて過ごすのなら、子どもたちにとってもこっちのほうがいいのではないかと思った。
吉の湯に行くために高円寺の駅からバスを利用すると、松ノ木→松ノ木二丁目→松ノ木公園→松ノ木住宅と松ノ木が続く。
もっともこの日の俺は、自転車で大学の研究室に行くつもりが、何者かの意思の力によって進路を歪められ高円寺に向かってしまったので、バスには乗っていない。
俺は悪くない。
もう何があっても俺は悪くない。
これまでにもう十分いろんな場所で悪役を押し付けられて演じてきたから。
もう疲れちゃったよ。
世の中の悪役たちには、ただPTAの役員を押し付けやすい類のお人好しも、相当に含まれていると思う。
ロードバイクなんてしゃれたものでなくても、通学用の自転車さえあれば、館林から板倉にも足利にも羽生にも行けた。
東京の景色があまり記憶に残っていないのは、俺がおっさんになってしまったこと、そしてあまり自転車で回っていないせいかもしれない。
適度なのんびり感と、それでいて適度な集中力の両立が記憶に結び付くのではとの仮説。
守られた記憶がないから神なんぞ信じない。
この発想が悪循環を生んでいるのかもなぁ。
でもさ、きっと神様もさ、いまさらさ、44歳からなんて仲良くしてくれないよ。
そう思いながらも高円寺氷川神社に参拝して節分の豆をもらった。
子どもたちは目一杯、俺に向かって豆を投げるだろう。
そうやって俺の内なる鬼まで叩き出してもらえればいい。
以上