人事担当者は偉い

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コンプライアンス守秘義務。そんなものをおそらくは本来意図されていた範囲まで越えて主張する人間が増えた。主張する人間は大概が暴対法施行以前のヤクザを真似た態度をとる。つくづく彼らが作り上げたものは文化になってしまったものだと思う。もう少しコンプライアンス守秘義務の話。実際はこれらの言葉に脅されておっかなびっくり仕事をせざるを得ない状態なのに、どうしてインターネット上の人事担当者はこんなに口が軽いんだろう。時間を割いてやってきた人間の見た目も、中身も、乗り越えてきた時間のことも、あっさりとバラして笑い者にしてしまう。これが彼らの任侠なんだろうか?採用は大事だけれど、大事にしすぎていやしませんか?人間なんて誰だって、くだらない、ろくでもない、無能な生き物なんだから。かつてたくさんいた「褒められて伸びるタイプです」と自らへの取り扱い方法を説明してきた者たちは、ことごとく伸びた姿を見せないままに姿を消してしまった。それにしても願ったものほど手に入らない、それ自体には慣れているのでなんとも思わない。しかし願ったものが本当に「物」であれば手に入らないだけで済むけれど、自由がほしいと願っていたらどうなるのか。自由は「概念」なので、抽象的である分だけごまかしがきかない。自分の心をごまかすには、今いる自分の心を殺すところから始めなければならないし、心の死体はほったらかしにしているとたまに生き返って勝手なことをデカい声で主張するから、その処理もまた面倒くさい。どんなゴミでも超高性能の焼却炉で処分してくれる自治体であっても、心の死体までは引き受けてはくれないのだ。わざわざ多様性なんて誰も言わない時代のほうが、実際は多様性があった。それは間違いないのだ。自分にとって都合が悪いものまで、多様性だからと認める胆力のある者は見たことがないからだ。あいつらが思い描いている多様性は、自分と自分が認める人間たちだけを生きやすくするためのローカルルール作りなのだ。「刺青の入った友だちと近くの銭湯に入りたい」くらいの動機であれば、「社会に多様性を!」と着地できない大きなテーマを大声で訴えるより、公衆浴場法や2017年の閣議決定をもとに話をしたほうが早いのだ、本当は。多様性多様性と言うな。もっと自分の欲を主張しろ。お前の欲望を大事にしろ。今日で今年の「必ず来なければいけない」日には区切りがついた大学院。学部生たちは日常のマナーをとても大切にしていて、おそらくその延長線上なのだろう、学問の話になっても「それは法が許しているから」と自らの欲は語ろうとしない。おじさんたちは自分の欲ばかりを語って、行き詰まると法に寄りかかろうとする。こんな世界からどうやって優秀な人間を見つけるんだろう。働くものはみんな偉い。人事担当者は特に偉い。

 

以上