トマトが嫌いなことはアイデンティティだった。
ピザのトマトなら食べられる、ミートソースなら食べられる。
トマト嫌いによくいるパターンには間違いないけど、どんどん老いていく自分にとってよりどころにしたくなる、「子どもじみた」部分であったと言える。
しかしそれが、急速に怪しくなってきた。
ケースの中のトマトが艶々していたから、美味しそうだと思ってしまった。
ずっとトマトは嫌いで生きてきたくせに。
物事は結局「艶」なのかなぁ。
(府中白糸台日記「今日のサウナは中洲のグリーンランドだった」より)
なんとまあトマトを美味しそうだと思ってしまっている。
ただここではまだ、「ケースの中に入っていると美味しそうに見える」という川崎ビッグの理論で納得することができた。
実際に注文まではしなかったしさ。
で、その3日後にトマトを食べた。
サラダにのっていた、スライスといってもいい一片だったけど、食べた。
普通に美味かった。
薄っすらと覚えている、かつて口に含んだ時の「ぐちゃぐちゃして苦い」の感想とはなんだったのだろう。
味覚の変調すら疑ったが、コロナは味がしなくなるやつだしなあ。
熱中症や糖尿病で味覚が変わる場合もあるらしいけど、長崎に来てから過剰なくらい水分は摂っているし(もちろん背景のビールは対象外)、6月に受けた健康診断の結果でも糖尿病は指摘されていない。
「トマトが美味しくなった」という理由で病院に行くのも考えがたいし、むしろ健康を手に入れたのだろうか?
とにかくこうして俺は、乏しいアイデンティティの中からまたひとつ、「トマトが嫌い」を失ってしまうような気がしている。
旅から日常に戻る今日は、冷やし中華のトマトを試してみようと思っている。
以上