妻が仕事の顔をしている

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都立大で教授が斬られた。一昨年から東京都立大へ名称が戻っていた。首都大学東京の名称は全般的に不評だったが、「トーキョーメトロポリタンユニバーシティ」の響きには格好いいと思ってしまったことがある。これは心の中の黒歴史だ。昨日は横浜へ出張して、神奈川区の親松の湯へ寄ってきた。親松の湯は「しんまつのゆ」と読む。カラッとした空気のサウナで、もうこういうサウナは銭湯にしか望めないのかもしれないと思った。時代は湿度の高い、セルフロウリュ付きのフィンランドサウナだ。上野のSHIZUKUに初めて泊まった日の朝、湿度が高く空気の重さすら感じる一番サウナに歓喜したものだった。しかし今はそればかりになってしまって、今度は鼻の粘膜がヒリつくサウナを求めるようになった。いつだってないものねだりばかりなのは認める。話は戻って、横浜市神奈川区というのは失われた群馬県群馬郡群馬町の親戚みたいなものだろうか。昨日の帰り道は、夕方の強く冷たい雨の中をなんとか東白楽駅まで歩いて東横線に乗った。たまたま座れたものだからもう立ち上がる気がしなくなって、ずっと各駅停車で新宿三丁目まで乗った。和光市までは行かなかった。途中で都立大学駅学芸大学駅に停車した。今では逆に有名になりすぎてしまったけれど、それぞれの最寄りにもう東京都立大学東京学芸大学もなく、土地の呼び名として定着している。珍しく東横線になんぞ乗って都立大学駅を通った日に都立大で事件が起こるとはこれも偶然かと思ったが、なんの益もない偶然だ。人それぞれの偶然の器はおそらく誰も彼も大差のない大きさで、どこの場面で器が満たされるか、もしくは生まれつき器に満たされた定量の偶然をどこに向かって注ぐのか、それだけで人生は決まるのだろう。最近は通勤で京王7000系「7777」の先頭車がホームに入ってきただけで、こんなところで偶然の運を消費したのかとうんざりすることがある。病的な意識過剰だが、本当に偶然はバカにできないとも思っている。こうしてたまたま就職氷河期の人間でなければ、振り返る今までよりさすがにまともな生活が送れていたはずだ。職業が、収入がというより、根本の部分が傷ついて壊れているから他人を信用できない。度合いに差はあれども、俺も妻もそこに当てはまっている。40代に入ってから、ときどき会う友人たちが仕事のままの顔をしていることが増えた。諦めてそうしたのか、覚悟を決めてそうしたのか、切り替えるためのエネルギーが底をついてそうなったのかは、二言三言しゃべればわかってしまう。最近は家で、妻が仕事の顔をしている様子をよく見るようになった。顔が仕事のままなら、吐き出されてくる言葉たちも仕事のままになる。俺と妻は、同じ職場で働いていたらまったく相いれなかっただろうし、さらには憎しみをぶつけあっていただろう。「私の家族が傷つけられた」とわざわざ数割増しで怒る者は、それ以前にお前が傷つけたあいつもまた誰かの家族であるのをわかっていない。