頭の中の教科書

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かつては頭の中に教科書を置いて、それをめくりながら「持ち込み可」の試験のように生活している時代があった。

 

もちろん、物理的に脳に教科書を突き刺したわけではなく、あくまで記憶のイメージ。

教科書と表したのだから、学力テストの話をしたほうがわかりやすいだろうか。

1998年冬の俺は、政治経済の教科書に確か10色もの蛍光ペンを使い分け、時には重ね塗りまでして、そうやって記憶のとっかかりを増やすことで盤石の態勢を敷いて、センター試験に臨んだ。

何点取ったかは忘れた。

しかしあとは現代文しかできない俺が、トータルすると「どこかに入れるのでは?」と言われる程度の点数を取れたのだから、きっと頭の中の政治経済の教科書が果たした役割は大きかった。

 

それが今は睡眠が足りないのか、ストレスのせいなのか、ただ疲れているからなのか、老化とはこういうものなのか、それとも若年性の認知症なのか。

すっかり短期記憶が弱くなってしまった。

正直、日常に支障があるレベルに達してしまったので(自分で認識できる時点ならまだ認知症ではないという説もある)、駄目になってしまった短期記憶の能力をフォローしながら過ごしている。

その瞬間に「これは忘れたらヤバい」と思ったことを殴り書きしておくだけだけれど。

iPhoneでメモをしようとすると、打っているうちにその「忘れたらヤバい」内容が曖昧になってしまう。

瞬発力でなんとかしのいでいくためには、殴り書きが最適なのだ。

あまりに殴り書きすぎて解読が不可能なことも多々あるが、そもそも「文字」そのものがうまく思い出せないせいでうまくメモが取れていないのではないかという恐ろしい解釈もある。

それも悪化の一途なもんだから、一体これからどうなっていくのやら。

 

これ、本当のことだから。

 

親が鬱病なら子どもは認知症かよ。

救いがない分だけ、あり得ることのように思える。

だいたい弱っている短期記憶をごまかしながら日常を送る方法なんか考える前に、まずは休んで病院に行けという話だ。

しかしこれがなんとかなったところで、意識がクリアになった分、余計に耐えなければならない現実の解像度が上がってしまうし、結局は別の部分が壊れてしまうだけだろう。

それとも俺の脳が、お前の日常に記憶する価値のあることなどなにもないと、適切な判断を下してくれた結果がこれなのかな。

 

もう、どうでもいいや。