(以下の話は写真の銭湯について直接書いたものではありません)
俺はいつも、実際の銭湯にとって公衆浴場の「公」の字は重すぎると思ってきたし、今もそう思っている。
相手が「公」であれば何を言ってもやってもいい、ぶん殴っても正義に変換できる。
「公」とは常に人権なき存在。
そう認識している人間が大半の世の中で、家族経営の手本のようなあり方で、日々の営業を続けていく。
これは忍耐のレベルを越えていると思う。
今年の春、東京の銭湯の組合(正式名称は調べればわかるがあえて記さない)が、各銭湯へサウナ営業の自粛を要請した。
詳しい経緯や表現の使い方に違いはあるかもしれないが、そんなことがあった。
ツイッターには、要請に応えずサウナの営業を続けようとする銭湯の名前が列挙され、悪者として扱われていた。
悪者にしてやれ、との意図も明らかに存在していた。
各店の事情に想像力を働かせることもなく「補助金をもらっているくせに」とまで罵られていた。
生活補償の補助金であれば、ボイラーがいかれても浴槽ひとつに熱湯を注いで、銭湯だと言い張るだろうし俺ならそうする。
しかし実際にそんな銭湯を見たことがないのは、そうではないからなのだろう。
そして銭湯以外でも、世の中は相当数の業種に相当額の補助金が出されている。
お前の給料は、会社とお前の稼ぎだけで構成されてはいないのだ。
深夜の地震で23ヶ所が破裂した東京の水道管は、翌朝には修復を終えていた。
そのことを大半の人は知らないか、当たり前だと思っている。
銭湯だって当たり前ではないのだよ。
銭湯を滅ぼすのは、老朽化より人間だと思っている。