忘れられた母親

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母親は40歳を過ぎてから鬱が強くなった。

当時の俺はそういうことを体系立てて理解はできていなかったけれど、小さな仕草やちょっとした物言いに、そうなる前から気配は感じていた。

母親が本格的に鬱病の診断を受けてからは「これは躁かな」と思う日も時折あったが、針はほとんど鬱に振れていたように思う。

家族の力をもってもどうすることもできなかったから、これは医学の話なのだと思った。

俺はだんだんと、元の母親がどんな母親だったのか、忘れてしまった。

 

肉を中心の食生活にしろ、外に出て太陽の光に当たれ、その他諸々の精神論と民間療法。

そんなものを引っ提げて近寄ってくる人もいた。

人はこんなにも医者になりたいものなのだろうか。

面倒くせえな。

癌にでもなったらもっと面倒くせえのが寄ってくるんだろうなと思った。

本当の敵は病気なのに、人間とも戦わなければならないのだから忙しい。

やっぱり病気になんてなるもんじゃない。

なりたくなくても、なってしまうんだけどさ。

 

俺は家を出た。

母親から離れる狙いがあったわけではなく、たまたま家から遠い大学にしか合格せず、田舎にまともな職などない時期に社会に出る羽目になったからだ。

家は父親と妹がずっと守ってくれた。

働いて何年か経つと、職場で俺は「メンヘラホイホイ」と呼ばれるようになった。

その酷い意味をいちいち書きたくもないけれど、そう呼ばれるようになった。

心を痛めた人への対し方を、ある程度は心得ていたということなのだろう。

しかしそれだけのことであって、力を分け与えることも、回復へ導くことも、もちろんできるはずがなかった。

一度は理解者だとみなされる分、その跳ね返りで嫌われることも多かった。

 

俺は母親をサンプルにしながら生きた。

自分にも鬱になる素因はあると思っていた。

自らが鬱病になるのを避けながら、そこの部分だけは丁寧に気をつけながら、生きた。

ストレスへの対処、極力あっさりの人間関係、一人の時間を意識して作ることなど。

避けられるものなら誰もが避けているはずで、自分の意識した行動に効果があったとは限らない。

それでも母親に足りなかったことを埋め、多過ぎたものを放り投げ、ここまでしのいで生きてきた。

それで40年を越えたのだから、上出来だろう。

 

昨日の夜、連絡があった。

母親は実家の近くの学童保育でパートを始めたのだという。

始める前に連絡をしてこなかったのは、続けていける自信がついてから連絡しようと決めていたかららしい。

今でもメンタルクリニックには通っているが、記憶の限り初めて、減薬を勧められたと笑っていた。