それはいわばリズムの止まった時間だ。歌で時々あるが、ドラムの音が消え、音楽が膨らむような感じのする、あの間に似ている。学校は閉鎖され、空を行く飛行機はわずかで、博物館の廊下では見学者のまばらな足音が妙に大きく響き、どこに行ってもいつもより静かだ。
(以下引用はすべて『コロナの時代の僕ら』より
まだまだ過去形にはならないけれど、自粛自粛で人影が消えた街の中で「命が安い、命が安い」と嘆きながら働いていたことは忘れない。
そこにあったのは、このイタリア人作家が描いたローマの寂しい光景とはまた違って、僅かに営業している飲食店で狂人たちが主役になって嬉々として怒鳴っている、「昨日より味が薄い」という理由で換気のために入口が開いたまんまの松屋で風に吹かれながらキ印がキレている、そういうものだった。
味が薄いと思うならまずコロナウイルスの症状を疑えよ、己を疑えよ。
遅くまで酒が出せなくなったので昼飲みにシフトした店もあるけれど、それはまた客層が悪くなって大変だろうなと思う。
午後になると僕は、国の災害対策を担う市民保護局が毎日行う全国の感染状況発表を待つ。それ以外はもう興味がない。
今日の東京の感染者数は39人だった。
随分と減った気がするし、これでも多いのかもしれないし、よく分からない。
分かるのは、この数字が小さくなるほどに安藤優子は機嫌が悪くなるということだけだ。
父は、高速道路でミサイルみたいに飛ばす車に追い越されるたびに、あの運転手はきっと知らないだろうが、衝突の衝撃というものは、車のスピードに比例して増えるのではなく、スピードを二乗した比率で増えるんだぞ、と言った。
これが指数関数的に、というやつなのか?
「日本は2週間後にニューヨークのようになる」と言い続けてた人たち、2週間後はいつになったらやってくるの?
素直に日本が嫌いと言え。
ニューヨークと、それよりもニューヨークに住む自分が大好きと言え。
「じゃあ、流行を本当に止めるにはどうすればいいの?」
「ワクチンを使うんだ」
「でもワクチンがなかったら?」
「その時はさらなる忍耐が必要になるね」
ワクチンが開発されていない以上、結局は忍耐力勝負なのだ。
忍耐力に欠ける人間、もっと言えば「忍耐力なにそれ美味しいの?」の人間もいる。
それは精神性というより、疾患に由来する部分も大きい。
明確な疾患であれ、医療の狭間でケアを受けられない類の癖に近いものであれ。
街から完全に人影を消すというのは無理なんだよ。
それをマスコミは望遠レンズを駆使して「密です!」とやるわけだ。
あんたも密の構成員です。
夕食の席ではみんな口々に、「一週間も過ぎたころにはすっかり解決してるよ」「そう、大丈夫、あと何日かすればきっと元の生活に戻れる」そんなことばかり言っていた。そうした中で僕は女性の友人に、どうしてずっと黙っているのかと尋ねられたが、肩をすくめて答えなかった。
楽観的なことを言えば叩かれる。
実は俺も来月になればかつての光景と生活が戻ってくる、戻ってきてしまうと思っている。
(そこに戻ってこられないのが本来は支援されるべき弱者なのだが、この国では弱者は最初からいなかったことにして解決するので)
今回のコロナウイルスの件で一番新鮮だったのは、世の中に俺より悲観的な人間がこれほど多くいたのを発見できたことだった。
どこに隠れてたんだよ?
このように感染症の流行は、集団のメンバーとしての自覚を持てと僕たちに促す。平時の僕らが不慣れなタイプの想像力を働かせろと命じ、自分と人々のあいだにはほどくにほどけぬ結びつきがあることを理解し、個人的な選択をする際にもみんなの存在を計算に入れろと命じる。感染症の流行に際して僕たちは単一の生物であり、ひとつの共同体に戻るのだ。
コロナウイルスは差別をしない。
正直こんなに平等性を感じたことはなかった。
何なら気持ちがいいくらいだったと、氷河期世代の一員は思う。
ただ社会的にいいポジションを取れなかった人間なので、安い命で働き続ける羽目になってしまったのだけれど。
だから僕らは反抗してしまう。勝手に決められてたまるか、世間とのつきあいをウイルスなんかに邪魔されないぞ。一ヶ月?一週間?冗談じゃない、一分だって嫌だ。みんなでそうしなきゃいけないと言うけれど、誰の言うことが本当に正しいんだ?
ここだけは俺が書いたのかと思った。
イタリアの物理学を専攻した作家が、無理矢理分かりやすくコロナ禍での生活や思いをまとめた本なのだけれど、この部分だけは感情オンリーだ。
彼はきっと馬券を買っているに違いない。
いずれにせよ、どうしてもアジア人の顔を見分けることができぬ僕らイタリア人の困難はさておき。今度の新型ウイルスの流行は、何もかも「お前らの」せいではない。どうしても犯人の名を挙げろと言うのならば、すべて僕たちのせいだ。
それはちょっと美しすぎるというか、安直にまとめすぎなんじゃないですかね……。
それともイタリアの方々も、お疲れで思考が面倒になってきているんでしょうか……。
この本の所々に、中国への冷たい感情はしっかりと描かれているんのだけれど、おかしいな。