パパを呼ぶ声

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朝の通勤電車、労働契約上は休みの土曜日だったが俺は通勤のために電車に乗ったのだから通勤電車で間違いない。

 

もちろんスーツ姿はほとんど見当たらない、ポツンポツンと眠たげな人が座るだけの車両の中を、うちの上の息子よりは幼げだろうか、おそらく5歳くらいの男の子が「パパー、パパー、パパー」と声を上げながら向こうから歩いてきた。

走る電車の中を、京王八王子の方向から新宿の方向へ、歩いてきた。

その子は父親を探しながら、俺の前を通過した。

俺はさすがにこの子が一人で電車に乗ってきたのではないだろうと思った。

父親がちょっと意地悪をして、隣の車両に身を隠したか。

それともこの子がはしゃいで端の車両まで走って、今戻りながら父親の姿を探しているのか。

そうでなければ電車の中で父親を探す理由がないし、そんなことだろうと思っていた。

だから特に声をかけることもなく、助けようともしなかった。

中間のドアを開けたままでその子は隣の車両に移り、相変わらず「パパー、パパー、パパー」の声を上げていた。

「パパー、パパー、パパー」の声が遠くなっていった。

各停新宿行きはすぐに調布に着いて、空いていた車内はゴチャゴチャになった。

「パパー、パパー、パパー」の声が人混みに飲まれて細くなって、それでもまだ聞こえてくる気がした。

俺は車両を降りた。

あの子の姿を探したが、見つからない。

父親と会えたのか、そのまま電車に乗り続けてどうにかなってしまったのか。

 

あの「パパー、パパー、パパー」の声がまだ聞こえる。

今になって救いの手を差しのべなかったのを後悔しているが、それはあの子のためが半分で、もう半分はこうして寝る前に後味の寂しい光景を反芻すると胸が痛くなる自分のためだ。

人の価値は何をどう後悔しているかで決まるから、俺は卑怯者だ。

今になって、あの子がどうなったかが気になってどうしようもない。

もしも何か不幸なことになっているのなら、俺の命と引き換えにしてでも助けてあげたいが、それは自分の命の価値の過大評価だろう。

子どもを見捨てて後悔している命なんかに価値はない。

それでもなんとか、あの子が父親と再会していることを祈っている。

お願いだから、祈ることくらいは許してほしい。