ウィリアム・サローヤンは幸福だったのか?有能だったのか?

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「最大の幸福は、 幸福など必要ないと知ることにある」(ウィリアム・サローヤン

 

「結婚して子どもがいるだけでも幸せじゃないか」と言われることがある。
「だけでも」にどういう意味が含まれているのかわからないけれど、それに俺は普段の大半を不幸な顔をして過ごしているつもりなのだけれど、そう言われることはある。

 

俺にとっては逆に結婚せずに、妻と子どもがいない人生はありえなかった。
当たり前のように結婚して、子どもが生まれて、それで自分も生きていくものだと思っていたし、実際にそうなっている。
これは単純に感覚だけの話で、おそらく妻もそうだと思う。
お互いが22歳のころには結婚することを決めていたし、実際に結婚して子供が生まれるまでにはモラトリアムともいえる緩い同居人時代を過ごしていたけれど、今こうして家族になっていることには何の疑問も抱いていないと思う。
「こういうものだ」と思っていると思う。

 

要は幸福など必要ない、と言ってみたところで、具体的に幸福のない状況とはどういったものなのだろうかということ。
幸福がない=不幸、でもないわけで、すなわちそれは生活の基盤そのものを指しているのではないか。
俺は妻がいて子どもが二人いてそれなりには平和な生活をしていて、その状況をマトリックス図の縦軸と横軸が(0.0)の状況だと思いながらここまでやってきていたわけだ。
これは結構な贅沢野郎だ。

ただ果たして俺が結婚に向く人間であったかどうか、というところで感覚のねじれがあるんだろうな……

20代のことは本当にほとんど忘れてしまったので、過去の自分がしてきたであろう選択を振り返ると、どうしても別の人間を見る感覚になる。

結局どうしてなのかはわからないけれど、俺の頭の中に結婚して当たり前の発想があったことが、今となっては本当に不思議。

 

「有能な人間は、失敗から学ぶから有能なのである。成功から学ぶものなどたかが知れている」(ウィリアム・サローヤン

 

16時間拘束されて、そのうち15時間25分を強制労働に費やした一日の、帰りの電車の中でこれを書いている。
そもそももう日付変わってんじゃねえの?
そうだ、これが幸せなんだよ。
俺はきっと幸せなんだ。
幸せで間違いない。
もう寝たい。

腹減った。

 

                                                                        以上