床屋の終わり

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3年間一緒に働いた職場の仲間から「〇〇さんの長所は髪が多いところだと思います」と別れの言葉を送られたのが俺だ。
人間性にはまったく言及されなかったが、そこにはあえて触れないほうがいいと判断したのだろう。
賢明だ。
彼は非常に仕事ができた男で、今は彼がさらっと捌いていた仕事を2.5人で四苦八苦しながらこなしている。
まあそれはともかく、俺は普段安い店で髪を切っている。
何かの祝い事の前には、転職前の同僚から紹介してもらった銀座のサロンで18,000円かけてカットしてもらう。
振れ幅が大きいが、いずれにせよこだわりというよりお任せの要素で構成されているのは間違いない。

 

今回はその「安い店」で髪を切った。
前職の職場の近くの店。
俺にとっては黒い空気と思い出が漂っている場所なのだが、この店は慣れているので説明しなくてもいいし(みんな「もみあげどうします?」と訊かれたらなんて答えてる?なにが模範解答なの?どう答えたらわかりやすいの?)、繰り返すが何より安い。

 

「今日は仕事の帰り?」
と話しかけられる。
「そうなんです」
と答える。
やりとりに噓はないのだけれど、俺は7年前の職場のままで、この近くで働き続けていると思われている。
そしてわざわざ暗い話をする必要もないので、説明をしないまま今日に至っている。

 

「ロックダウンしてほしかったね」
と言われ、
「そうなんですか」
と答える。
ラジオでは総理大臣の会見の声が流れている。

 

「お客さんが減っちゃってさ、ちょっとばっかしの補償金をもらっても右から左だしさ、だったらせめてロックダウンしてさ、さっさと新型コロナウイルスってのを押さえ込んでほしかったよね」
と言われ、
「そうですね」
と答える。

 

「お宅もお子さんは男ふたりでしょ?男の子は本当に役に立たなくて笑っちゃうよね。でもなんとかさ、仕事に就いてくれてさ、今回のことでも潰れないでさ、やっていけてるらしくて」
と言われ、
「そうなんですね」
と答える。

 

「俺はもう店を閉めることにしたよ。もう苦しくってさ。どうしようもなくてさ。ごめんな、こんな話しちゃって。コロナは怖くねえんだよ。もうやることはやり切ったからさ。今までありがとうな」
と言われ、
「そうですか」
と答えた。

 

いつものように千円札2枚と小銭を、釣銭のない金額で渡した。
「今までありがとうな」
とまた言ってくれたので、
「こちらこそ」
と答えて両手で握手をした。

 

この店を殺したのはいったい何者なのだろうか。
許せないし、許さない。
祝い事などそうそうないので、俺は新たにこれから通う店を探さなくてはならない。